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プロフィールについて

院長の詳しいプロフィール

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キュアハウス 鍼灸治療院の院長 中村 幸生

こんにちは。 キュアハウス鍼灸治療院の院長 中村 幸生(なかむら ゆきお)です。 日本橋・茅場町で、自立神経失調症からくる身体の症状、痛みを取り除くお手伝いをしています。

どの病院、どの治療院にいっても、良くならなかった自分の病気や怪我でボロボロの身体を、自分で治したいという思いから、300軒以上の病院や治療院を見 て回り、医療業界と治療業界の『やれていない部分で患者側が最も必要としているもの』を提供するために平成14年に治療院を開業しました。

さらには、もっと幅広く、著者の経験から得られた知識と技術を広めようと、平成25年から情報発信を本格的にスタート。書籍出版もその活動の一つです。

当院の理念は、 薬や病院に頼らずに、自分の身体を癒す力:自己治癒力で身体の不調を改善し、さらには、自身で」健康管理を行える知識と技術を身につけるお手伝いをしています。 変な話、自分で自分の身体を癒やす力を身につけていただき、痛みや症状は医者や治療家でしか治せないという既成概念から卒業していただくことが、私にとっての最高の幸せな瞬間です。 決して健康のために健康知識を利用するのではなく、 『やりたいことをやりながら、体調が崩れた時に自己解決していくことで、医療費と医療に必要な時間を浪費することなく、やりがいのある人生を繰り広がるこ とが可能な人たちを育てていく。』 治療院を運営しながら、常に患者様の悩みと向き合い、キュアハウスの世界観に共感していただける人たちを集めて、自由な人生設計をしていける情報を発信をしています。

国家資格 他

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平成12年4月12日 国家資格 きゅう師免許 取得

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平成12年4月12日 国家資格 あん摩マッサージ指圧師免許 取得

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平成12年4月12日 国家資格 はり師免許取得

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平成7年4月23日 東日本療術協会 療術師認定資格 取得

著作

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略歴

1992年 日本工業大学工学部電気電子工学科卒業
1992年~2002年 日本工業大学アメリカンフットボールヘッドコーチ
1994年~1995年 東京療術学院療術師養成本科
1995年~1997年 名倉堂藤本接骨院勤務
1997年~2000年 花田学園日本鍼灸理療専門学校本科
2000年~2002年 陽春堂治療センター
2002年~2008年 キュアハウス銀座鍼灸治療
2008年~現在 京橋から日本橋兜町に移転後名称変更キュアハウス鍼灸治療院
1995年~2015年 日本工業大学アメリカンフットボール部トレーナー
2008年~現在 東京都中央区の寝たきり高齢者及び重度心身障害者のための介護者慰労事業協力店に加盟
2008年~現在 東京都中央区内共通のハッピー買物券取扱店に加盟
2011年~現在 日本治療協会正会員

院長 中村幸生 の半生

1,小学生の頃、皮膚疾患による形成外科手術での大失敗。
2,中学生から大学まで、ハウスダストのアレルギー性鼻炎となり、耳鼻咽喉科や内科の治療を受けることで悪化。
3,大学1年生で、両足を痛め、10件以上の整形外科や接骨院などで、一生治らないと言われる。
4,大学1年の時、ぎっくり腰をカイロプラクティックのたった一度の治療で痛み消失。
5,大学2年の時、階段の上り下りや自転車の運転ができなくなる。
その原因が、半月板の歪みと知り、接骨院で矯正してもらい治癒。 (左右で4つの半月板をそれぞれ負傷し、その都度矯正してもらう)
6.右腕、左足小指、右鎖骨の骨折を鍼で短期回復。
7,大学でアメリカンフットボールをプレイ。
その結果、全身怪我だらけ。上記に上げたものはその一部。 自然と自分の身体を自分で調整するようになる。 他の選手の怪我もある程度見れるようになる。そんな姿を見続けたある後輩から、「将来は治療家になった方が良いんじゃないですか?」と、言われた一言。
8,「3」で書いた、両足の痛みを「治るよ!」と軽く一言。本当に、1~2カ月後には、走れるように回復させてくれた指圧師との出会い。
9,アメリカンフットボールのコーチ時代、試合中に負傷する選手に、何も手当てのできない自分を不甲斐なく思う。
10,サラリーマン時代に、先輩サラリーマンや上司の生き方や仕事に対する姿勢を見ているうちに、「自分の居場所はここではない。」と、思った。

このような経験が、いろいろと絡み合って、治療業界への転身を決意する事になりました。 その後もいろいろあって、さまざまな経験を通すことで、この治療という業界が、段々と、私にとって天職である事に気付くこととなります。 上記にあげた、転身の理由となったものには、それぞれドラマがあるのですが、とりあえず、私の大まかな治療家になった理由を書かせていただきました。 もし、もっと詳しいプロフィールを読みたいと思われる方は、引き続き、私の過去を深読みしていただけると嬉しいです

幼少~中学時代

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物心ついた時に、近所のおばちゃんに、 「くまちゃん!!」 と、呼ばれたことがある。 なぜ?と思い、親に聞いてみると、私が出生したときに、父親が、近所に「熊五郎」と、名付けたと言いまわっていたそうな! 私の名前は、「幸生」(ゆきお)

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これでよかった。 とは、実は、30歳過ぎまでこれっぽっちも思ったことがなかった。なぜなら、「幸せに生まれる」と書いて「幸生」、 幸せに生まれたから、後はもうどうでもいいんだ!!と思いながら、生きてきた。 幼稚園で、二人の姉のマネをして、オルガンを習いだす。 小学校では、習字も一緒に習うことに。 そこから、姉とは別れ、小学4年で、近所のリトルリーグに入り、野球を始める。 野球を始めるときには、父親からグローブを買ってもらう代わりに、 「一生野球を止めるなよ!」と、釘を刺される。

そのため、まったく試合に出れるほどうまくならない野球から離れようとも、父の恐ろしい眼光と、あの言葉が頭から離れずに、 中学生になった時にも、入る気のない野球部に入ってしまった。 野球部に入ったもう一つの理由が、リトルリーグでコーチに何部に入ったかを、報告しなければならず、全員野球部と言っている中、自分だけ、他の部を言うわけにもいかず、流れのまま、まだ決まってもないのに、 「野球部です。」 と、答えてしまったのだ。 こうして、リトルリーグから中学野球部までの6年間の長い、万年補欠生活を経験することに!! さらに、小学校、中学校と、成績はクラスで断トツの最下位。 なぜか、一番前の席で、一生懸命に授業を聞いて、ノートもまめに取っていたにもかかわらず、算数以外赤点以上の成績が取れないバカさ加減。 しかも、身長は、学年で一番小さく、中学卒業時で151cmしかなかった。 このような状況だから、いじめられない理由がなく。 ずっといじめの標的に合っていた。

そんなことからも、 「こんな名前を付けられたからだ!!」 「生まれた時が幸せだったから、これから先は不幸しかないんだ!!」 と、いじけた考え方を持ち続けてしまった。 中学生というと、高校受験がある。 みんなそれぞれの志望校が決まっていた。 そんな中、志望校を紙に書いて提出するということがあった。 その時、先生は一言、 「ああ、中村は書かなくていいぞ!!」 と、大声で言われる。

そう、志望できる高校がなかったのだ!! それほど、成績が悪かった。 そんなある日、副担任に呼び止められ、話を聞くと、 「お前の学校を決めてきたから、いついつに行って来い!!」 と、言われる。

高校時代

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何も知らずに、その高校へ行くと・・・? そこは、全校生徒で6,000人もいるマンモス校。 そして、全員が男子。 そう男子校だったんです。 しかも、グランドも体育館もプールも、ことごとく運動施設のない高校。 おそらく、都内で成績が最低レベルの男子が、勢ぞろいしているような高校だった。

しかし、これが私の転機だったんですね! 唯一赤点でない成績を取れたことのある数学。 この一点で、私の進学先は、この工業高校に決まった。しかも、電気科。

この高校に入って良かったことは3つ。

高校附属の大学があったこと / 2. 野球を止めるチャンスができたこと / 3. 一気に身長が伸びたこと

都内で最低レベルの成績で悪い言葉でゴロツキばかりが集まったこの高校。 優しい先生たちは、こんなダメ人間たちにも行ける大学を作ってあげようと、高校附属の大学を作ってくれた。 そのため、ある一定の学業水準があり、進学希望があれば、ほとんどの生徒が大学まで行けるルールがあったのだ。 成績は、授業を聞いていれば、誰もがテストで点数を取れるような工夫があった。 だから、誰でも附属の大学であれば、進学可能だったのだ。 今考えると、夢のような学校である。

そして、運動設備が全くないことから、怖くてまともに口もきけない父親に、 「野球部はないみたい!」 と、嘘をついて野球から手を引くことができたのだ。 父親は、見るからに西郷どんのような貫禄の持ち主。 しかも、大工の親分でもある。 街を歩けば、チンピラが寄ってきて、挨拶をして去っていく。 腕っ節一つで、ここまで生き抜いてきたような男。 そんな父親から、

「野球は一生止めるなよ!!」 と、釘を刺された私にとって、このタイミング以外に止めるチャンスはなかったのだ。 実は、弱小野球部は存在していたのだが・・・。

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そして、野球を止めたことで、今まで無理に野球で鍛え抜かれた身体の緊張感が緩み、1年の夏休みが明ける頃には、151cmだった身長が163cmまで、一気に伸びることができた。 その結果、コンプレックスの一つはここで解消されたのだ。

私には、まだまだコンプレックスがありました。 小さい頃から、家にいると 「男が家にいるとは、どういうことじゃあ!!」 と、父親に怒られ、 「男なら外で遊んで来い!!!!!」 と言われてしまう。 そのため、外へ行くしかないが、同級生と遊んでも、身体が人一倍小さいため、同じような遊びができず、結局バカにされ、いじけてしまう。 しかし、家にも帰れない。 泣いて帰れば、 「男がメソメソしやがって!!!!!」 と、また怒られてしまう。 家にも外にも、自分の居場所がなく、どこにいても縮まっているしかなかった。

早く、誰も知らないところ、親のいないところへ行きたかった。 けれど、 「お前は、一人では絶対に生きてはいけない。」 と、何十回も言って聞かされてたのを本気で思ってしまう自分もいた。 そう、誰も知らないところへ行ったところで、一人では生きていけないから、結局どこへも行けないんだ。と、思うしかなかったのだ。

また、物心ついた時に、身体に変なものがついていることを発見。 どこの誰の身体を見てもついていない変なもの。 これが、何なのかはわからない。 親も心配になり、いろいろ試すが効果がない。 最悪だったのが、イボコロリ攻撃。 これが、何よりつらかった。 イボコロリを皮膚につけると、皮膚に火鉢を当てたように、全体が熱くなり、焼け爛れるような痛みが走る。 私は、ひたすら絶叫。

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親は、暴れないように抑える。 これを毎日繰り返すのだ。 結果、何も変わらない。 つらいだけだった。 そんな時、近所の小児科医から、大学病院を紹介され受診。 形成外科の教授が診断してくれ、あっさり 「ああ、これね!大丈夫手術で簡単に治るから。」 と、言われ、まずは写真撮影。 術前術後を取るためのものと思われる。

手術をした結果、 「すいません。場所が場所だけに、レーザーで簡単にできるはずが、レーザーを当てると危険なので、はさみで切れるところだけ切りました。」 ということで、一生消えない傷痕だけ残り、問題のブツも何なのかわからないまま、その病院から退院した。 要は今も残っているということ。 高校生にもなると、みんなからの視線が気になり、裸になるのが怖くなる。 ある日、友達から、 「そんなのがあると、女の子と付き合えないな!」 と言われる。 すごくショックを覚えるも、自分自身、そう思う部分もあった。

そして、この言葉は、大学生になってから、さらに言われることが多くなる。 幸い、高校、大学と男子校だったため、女性といる時間がほとんどないことと、周りも、付き合っている人たちが少なかったことが、少しばかりの慰めになっていた。 中学2年生のある授業中、後ろに座っている同級生から、肩を叩かれ、 「耳、大丈夫?」 と、聞かれる。 自分には、何のことを言われているのかわからなかった。 「えっ?何のこと?」 と、聞き返すと、 「耳が肩についてるよ!」 「えええぇーーーーー!!!!!」 すぐに医務室へ直行、そこで、内科を紹介され、すぐに病院へ。 原因はわからず、とりあえず浣腸されると、次第に治っていった。

しかし、これが恐怖の始まりだった。 ある日の朝、母親に、 「どこでぶつけたの?」 「何が?」 「頭が腫れ上がってるわよ!」 「えっ!」 触ってみると、ナスが一つくっついている感じに!! こんなことが日々続き、病院へ行っても原因がなかなかわからない。 内科より耳鼻咽喉科の方がよいだろうと、紹介された耳鼻咽喉科で、アレルギー性鼻炎と診断される。 それまで、鼻の症状は全くなかった。 ただただ、じんましんのような症状がでるだけだったのだ。 しかし、耳鼻咽喉科で治療を開始すると、何となくじんましんが出る回数が減ってきたような? それに取って代わったように、鼻水とくしゃみがひどくなる。 並行してどんどん薬の量も増えてきた。 すると、じんましんも再発。 ひどい時は、体中すべてがじんましんで覆われるほどになり、鏡を見て、自分の姿に吐いてしまうほどになってしまった。

そんなある日、飛び込みセールスがやってきた。 それは、クロレラの売り込みだった。 その営業マンは、私の身体を見るや、 「これは、すぐにクロレラを飲んでください。」 と、勢いに押された形で、親が買ってくれた。 これがきっかけとなり、日に日にじんましんの数も大きさも鼻水もくしゃみも減っていったのだ。 これが、高校3年生の時。 その後、プロポリスや漢方、アメリカンフットボールとの出会いによって、身体が強くなり、大学3年生ごろには、大きなじんましんや、ひどいアレルギー症状は出なくなっていた。 しかし、完全に治るということは、いまだにない。 しっかりと自己管理していなければ、すぐにじんましんが出てしまう状況を持っている。

さて、このじんましんの原因であるが、発症当時を振り返ると、自宅の隣に住んでいる人と、親がうまくいっていなかったのがきっかけだったと思われる。 どういうことかというと、細かいことは抜きにして、中学2年の時に、家を増改築。 自宅の窓を開けると、隣の庭が目に入る位置関係になった。 隣の家としては、少し居心地が悪くなったのかもしれない。 その庭に、日に日に檻が増えていく。 その檻には、見たこともない動物たちが、どんどん増えていく。 最終的には、庭全体に檻が敷き詰められ、部屋の中にも鳥かごなどが所狭しと置かれているような感じだった。 当然、夜行性の動物もいるため、檻に体当たりするような音で、眠れなくなる。 それとともに、動物たちの動きにより、さまざまなものが家の中に入り込んでくるようになった。 これを吸い込みながらの生活が、アレルギー性の身体を作ったのだと思う。 小学4年生から中学卒業まで、父親に野球を辞めるということを言えずに、ひたすら補欠で応援団をやってきて、ようやく、大ウソをつき高校で野球から抜けることができた。 しかし、メチャメチャ厳しい練習環境にあった野球を、ピタッと辞めた結果、身長が一気に伸び、視力が一気に落ち、筋肉が落ちたことで脂肪がついた。 視力に関しては、中卒時2.0あった視力が、高校1年の夏休み明けで0.2まで落ちていた。

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原因は、毎日野球をやっていたのが、やることがなくなり、ひたすら漫画を読み、テレビゲームにふけっていたからだ。 そんな怠けきった身体でいつまでも耐えられるわけもなく、何となく、大学に入ったら、また体を動かしたいという欲求がわいていた。 そんなある日、高校からの友人と学食で、どの部活に入るかについて話し合っていた。

そして、大方、空手部か少林寺拳法部に決定しかかっているとき、 突然私の肩を叩く人がいた。 振り返ってみると、知らない人。その人は笑顔で、 「君、アメフト入らない?」 この一言が、私の人生を大きく変えていくことになるとは、この時点で思うはずもなかった。 「えっ?僕アメフトなんて知りませんけど?」 「大丈夫大丈夫!今から教えてあげるから、ちょっと来てみて。」 しまう状況を持っている。

と、部室に連れて行かれ、1時間半みっちりと、マンツーマンで、アメフトの魅力について、聞かされた。 しかし、私の理解力では、チンプンカンプン。 とりあえず、解放されたと安堵し、家へ帰ると、すぐに、アメフトの先輩から電話が!! 「明日の昼にミーティングがあるんで、来てくださいね!必ずですよ!」 と、用件だけ言って、切られてしまった。 仕方なく、翌日部室へ向かうと、部員全員に出迎えられ、 「本日、入部が決まった中村君です。」 「えっ????」 と、思っている間に入部決定。 こんな形で、アメフト人生が始まる。 しまう状況を持っている。

入部1週間で、新入部員に希望ポジションを聞いていく先輩。 しかし、私は、まだポジションすら理解していない状態。 すると、 「ここから1週間ずつ、全部のポジションを体験してみて!」 と、言われる。 この1週間たらいまわしにあったおかげで、ポジションごとに、全力で練習に取り組むことになる。 同期入部の人たちは、大分、自分のポジションの練習に慣れてきたころ、私は、ポジションが変わるたびに、覚えることが多く頭の中は?????だらけ。 そんなある日、足が痛くなり、うまく走れなくなる。 ただ、乗り遅れたくないという気持ちが、練習を続けさせ、結果、両足ともに痛みが強くなり、走るどころか、足をついて立つこともままならなくなった。 入部直後の5月のことである。 この症状に関しては、どこの病院や接骨院へ行っても 原因不明 異常なし この二つの言葉を言われました。 そして、痛みが強くなるにつれ難病!!という言葉も。 そして、 「一生車椅子になってしまうかもしれない。」 とか 「一生運動は無理でしょうね!」 と、言われる状態になってしまった。 しまう状況を持っている。

この足の痛みが治り始めたのが、1年の秋。 そう、シーズンはすでに始まっていた。(アメフトのシーズンは、9月~11月) ようやく練習に復帰できるようになり、焦っていたのもあるのでしょうが、1週間もしない間に、右腕を骨折。 1年目のシーズンは、早くも終わってしまいました。 それから、2年目では、両膝の半月板を4か所とも損傷。 腰椎椎間板ヘルニア、頚椎椎間板ヘルニア。 3年では、熱中症で熱痙攣。 もう少しで死ぬところだったと医師から言われました。 そして、左足小指を骨折。 4年で、右鎖骨骨折。 そして、ヘルニアだったと思っていた、腰と首は、どちらもすべり症になっていると言われる。 1年の足の痛みと3年の熱痙攣時には、ドクターストップが入り、アメフトを止めるように強く言われる。 そして、毎年のように親からも辞めるように説得される。

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けれど、私は辞める気を一切起こすことがなかった。 それは、アメフトの魅力が計り知れないものだったからだ。 前の記事で書いていたように、万年補欠の野球経験者が、アメフトを経験しただけで、ソフトボール大会でホームラン王を獲得するように、運動能力が飛躍的にアップしたのだ。 しかも、アメフトをやればやるほど、全身性じんましんも治まっていく。

怪我は多くとも、自分自身のレベルが上がり、自信がわき始めたことが、辞める理由をどんどん消していったということ。 さらには、同期入部者10人のうち、残ったのは5人だけ。 この残った5人は、どちらかと言えば、先輩が怖くて、辞める勇気を出せなかった人たち。 練習は過酷。 怪我も多く、時間も長く、先輩も厳しい。 そんな中、辞める根性のある同期は、殴られてでも辞めていく。

しかし、その悲惨な姿を見ていた私たちは、辞めることを恐れ、辞めることができなかったところもあっただろう。 そのため、先輩からは、「根性のない奴らが残った。」と思われていた。 過去から見ても、一番心配な学年と言われていた。 私は、この見られ方が非常に悔しくて、どうにか見返してやりたいと思っていた。 さらに、学校からは、今後のアメフト部の将来性を感じることができないということで、廃部にしようとする動きまで出てきた。

そんな時、3年の私に、ディフェンスキャプテンの称号を与えられた。 なぜなら、ディフェンス専門でやっていた選手が私だけだったからである。 そんな安易な決め方が、さらに私をどっぷり、アメフトにハマらせていった。 誰よりも怪我が多いため、自分の身体を徹底研究。 ウエイトトレーニングで日々肉体改造。

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365日、休むことなく学校のトレーニング施設を使用していた。 試験中には、先生に怒られながらも、トレーニングを続けた。 さらに、寝る間も惜しんで、アメフトの研究を行う。 その結果、誰よりもアメフトの知識がつき、誰もが私についてきてくれるようになる。 最終学年では、主将となるが、シーズン寸前で鎖骨骨折。 シーズン後半からしか参戦できなくなる。 しかし、それがさらにチームの結束力を上げ、同部始まって以来の、優勝と上位リーグ昇格を果たすことになる。

厳しい親を持った子供は多いと思う。 そのため、自分の意思表示をなかなかうまくできなくなってしまった人もいるだろう。 私もその一人である。 私の親は、しつけに関しては、挨拶だけ。 それ以外のしつけは一切なく、 「子供は、家でうじうじせずに外で遊べ!!」 というタイプだった。 しかし、挨拶だけは徹底的に厳しく、中学生のころ、父親が帰宅したときに、たまたま機嫌の悪かった私は、 「お帰り!!」 の一言を言わなかったことがある。 その瞬間、父親の逆鱗に触れ、ボコボコに殴られ、壁には頭を打ち付けるは、顔面はみるみる腫れ上がるはで、悲惨な状態になったことがある。 こんなことがしょっちゅう起きる一家だったため、怖くて逆らうことは考えられなかった。 そのため、活躍できない野球を続けなければならなかったことは、以前書いた。

大学時代

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兄弟3人中、唯一大学進学を果たすも、高校の流れから電気科に所属。 特別電気が好きだったわけではなく、中学生時代に、たまたま数学だけ、赤点以外を取れたからという理由だけで、大学まで来てしまった。 しかも、大学では、まともに勉強もせずに、アメフトに明け暮れていた。

唯一、父親の「もう辞めろ」という言葉に逆らったのが、この頃。 アメフトを始めたことで、身体が大きくなり、怖いものがなくなり始めていたことで、勢いで逆らうことができた。 けれど、就職先を考えるときに、一番悩んだのは、 「どの仕事が自分にはふさわしいのか?」 どう考えても、電気関係でやりたい仕事を探すことはできなかった。 しかし、高校、大学は、自分の意志でないにもかかわらず、学費の高い学校へ、通わせてもらった。 しかも、個人事業で大工だった父親は、電気関連の将来性を明るいものと感じており、電気関連への就職は必然的なものとなっていた。 そんな中、たまたま友人と、一流企業の工場見学へ付き合うことになった。 もちろん電気関連である。

すると、なぜか友人ではなく、私が総務部長に気に入られ、半ば強引に、就職が決まってしまった。 最後の誘い文句は、 「もう一人アメフト経験者を就職させることができたら、会社でアメフト部を作ってあげるよ!」 と、今の時代では考えられないような、夢のような誘われ方をした。 しかし、就職した後に、アメフト部を作る余裕が、その会社にはないことが後でわかった。 仕事をはじめ、周りの先輩を見ていると、誰からも、やりがいを感じられない。 目の輝きがないのだ。 同僚と話すのは、仕事の話より、テレビゲームの話。 就業時間内は、ほぼ無駄話が続く。 就業時間が終わると、待ってましたとばかり、残業代を稼ごうと、真面目に働くふりをする。 これも、今の時代では考えられない光景なのだろうが、当時は、こういう会社があったのだ。

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そんな中、もう一度、父親に逆らう決断をする時が来た。 それが、治療家への転身を決意した日。 就職して1年半。 とても、会社に馴染むことができず、辞めることばかり考えるようになっていた。 そんな中、アメフトの合宿中に、選手のテーピングを巻いている姿を見ていたひとりの後輩が一言、 「中村さんは、将来治療家になった方がいいんじゃないですか?」 と言われたことがある。 これは、私が大学3年の時である。 その時は、 「治療家?絶対嫌だよ!!」 って、言った覚えがある。

そんな中、もう一度、父親に逆らう決断をする時が来た。 それが、治療家への転身を決意した日。 就職して1年半。 とても、会社に馴染むことができず、辞めることばかり考えるようになっていた。 そんな中、アメフトの合宿中に、選手のテーピングを巻いている姿を見ていたひとりの後輩が一言、 「中村さんは、将来治療家になった方がいいんじゃないですか?」 と言われたことがある。 これは、私が大学3年の時である。 その時は、 「治療家?絶対嫌だよ!!」 って、言った覚えがある。 しかし、 「治療家になった方がいい」 この言葉が、異常に気になり始めた。 すると、会社に行くと、治療家になって生活していける かどうかの計算ばかりするようになっていた。 こんな状態になってしまったら、もう治療家になるしか ないと決意。家に帰って、初めて家族を集め、 「会社を辞め治療家になる」 と報告する。

院長 アメフト部OB会にて もちろん反対はされたが、気持ちは揺るがず、辞めることが決まった。 会社に報告した1週間後、父は仕事に行く途中、駅のホームで倒れた。 大動脈弁弁膜症。 生死をかけた大手術以外、助かる方法がなかった。 何時間かかったのかも覚えていないほど、多くの時が過ぎたように感じた。 自分のせいだ!! ここから、大きな荷物を背負うことになる。 その後、父親が職場で、「電気の一流企業に就職した」と、えらく私のことを自慢していたことを知らされた。 とんでもないことをしてしまったと、すごく落ち込んだ。 けれど、すでに、会社へは辞表届も出している。 もう、後戻りはできない。 「よし、治療家になって、父親の身体を絶対に治すぞ!!」 これが、初めての治療家としての決意だ。 すぐに開業するため、整体の学校へ通うことを決める。 整体であれば、最短で半年で開業できる。

すぐに、 「技術を磨き、父を治すぞ」 と、思っていたが、とても学校卒業時に、治療できる技術も自信も身についていなかった。 こんな状態では、父親どころか患者さん一人治すことができない。 そんなことから、しっかり国家資格を取る必要ありと感じ、鍼灸学校への入学を決める。 開業へ遠回りしすぎたようだ。 父は、私が、鍼灸学校へ入学すると、肝臓がんを患ってしまう。 大手術の結果、命を取り留めたと思っていたが、実は、手術でも取り除けないほど、進行していたらしい。 父は、鍼灸学校の卒業試験中に旅立ってしまった。 しかも、毎日看病に行っていたはずの私を、父は気づいていなかったようで、死ぬ間際に、母にそっと、 「幸生は最後まで来なかったな!」 と、言ったらしい。 おそらく、毎日看病に行ってた私を、病院の先生とでも思っていたのだろう。

病室では、常に私に敬語だった。 そんな会話を経験したことがなかったので、何かおかしいと思っていたが、そういうことだったらしい。 「お前は、一人では何もできない。」 と、言い続けた父に、一人で立派に治療家になるとこの時、固く固く誓った。 24歳の秋に、治療家転身を決意。 2年近く勤めた会社を退職。 直後より、整体の専門学校へ入学。 この選択が、開業までの遠回りとなった。 大学1年から、さまざまな治療院へ通う毎日を過ごした中、私の中で、人を治す技術No.1は、

整体師

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このイメージが強くなっていた。 ある日、長く通っていた整体の先生に、 「治療家になることにしました。」 と、報告すると、 「なら、国家資格を絶対に取りなさい。」 と、貴重な助言をいただいていた。 なのに、自分の中での最強整体師という概念が崩れることはなかった。 私が、選択した整体の学校は、治す技術以上に、患者さんから支持される治療家を育てる。 そのため、開業後、安定して治療家として活動できるという、素晴らしい方針の学校だった。

しかも、卒業と同時に開業できるところまで指導していただけるという。 であれば、安定した治療院を開業できる最短距離にある学校と思い、入学することになる。 学校のコンセプト通り、同級生には、即開業を目指している人が多く、早い人は、入学当初から自分の治療院の内装施工を手掛ける人までいた。 ところが、授業に参加していくごとに、自分の中で焦りを感じ始めていた。 なぜなら、整体学校入学と同時に、接骨院でアルバイトを始めていたため、今習っている技術が、どこまで通用するのかを、肌で感じることができたからだ。 入学後1年で卒業。 その時に、私の頭からは、まったく開業という文字が吹っ飛んでいた。 その後、過去に、整体の先生から教えていただいた、国家資格所得を目指すべく、鍼灸学校入学を目指すようになる。 そこで、また大きな壁が立ちはだかっていた。 それは、一般教養 鍼灸学校の入試は、学校によってまちまちだが、

英語 / 国語 / 数学 / 理科 / 社会
この基礎科目の中から、学校により2~3科目が試験問題となる。 しかも、中学2年生レベルの試験問題という、極めてレベルの低い試験問題である。 ところが、以前にも書いたが、中学で覚えるはずの、一般教養が全くない。 従って、入試にチャレンジしてもまったく太刀打ちできない。 結果、大卒で一流企業の会社員を経験してから、2浪を経験。 その間、中学2年生程度の問題集を買いまくり、入試対策に時間をかけつつも、接骨院でのアルバイトを続けた。 そして、大学のアメリカンフットボールのコーチを大学卒業後に就任。 整体の専門学校卒業後には、トレーナーも兼業することになる。 ほぼ、寝る間も惜しんで、入試対策とアメフトと、アルバイトを休むことなく続け、ようやく3年目にして入学することができた。

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これで、ようやく鍼灸学校を卒業すれば、念願の開業かと思っていた。 ところが、国家資格を取ったところで、やはり、整体学校を卒業したときと気持ちは変わらず、まったくもって、開業する自信はなかった。 そのため、開業は諦め、鍼灸治療院へ勤めることとなる。 ここで感じたことは、いくらしっかりした学校へ入っても、結局は臨床がものを言う。

開業する前に、たくさんの患者さんと触れ合うことが重要であり、 学校はあくまで資格を取るためだけのものであるということである。 私は、学校の授業に危機感を持っていたので、開業するまでに、治療業界のすべてを知り尽くす必要があると感じていた。 そのため、整形外科、接骨院、整骨院、整体院、鍼灸院、クイックマッサージ、マッサージ院と、さまざまな治療業態を見てきた。 その経験から、業態ごとの特徴を知ることができ、患者さんのタイプもいろいろとみることができた。 やはり、さまざまな経験を積むということは、非常に重要なことであると、強く感じた。

プロフィール

鍼灸学校を卒業後、自分の勤め先である鍼灸整体治療院を東京の銀座のど真ん中にある、今はなき某治療院に決めた。 その治療院は、中国人が中心となった、鍼灸、整体、そして漢方まで手掛ける、総合治療院であった。 これまでに、たくさんの治療院で勤めてきて、開業前に最終チェックとして、この治療院で、どこまで自分の力を発揮できるかチャレンジすることにした。

この治療院は、雑誌やテレビに出ている治療院で、全国各地から、 治療目的で患者さんが集まってくる。 この環境は、自分の腕試しには、またとない環境である。 ところが、意外なことに、あっという間に指名No.1になってしまった。 そして、治療院主任を任されることになった。 人事も任された。 そんなある日、従業員と院長の間にもめごとが起きた。 その間に入った私は、院長の機嫌を損ね、その場で首を切られてしまった。 仕方なく、他の治療院を探し、就職するが、やはり、銀座の治療院では、今まで診てきた患者さんが多く、新しい治療院での患者さんに集中できない。 そこで、一旦、新しい治療院を辞め、銀座の治療院の院長に謝罪をし、復帰させてもらうことに。 そして、すぐに元の主任の座を与えられ、指名の患者さんの手当てができるようになる。

あるとき、院長が長期休暇で中国へ帰るということになり、その間、院長指名の患者さんも、私が診るようになる。 すると、怖いことが起こった。 今まで院長指名だった患者さんのほとんどが、私を指名するようになってしまったのだ。 院長の性格からして、この事実を知ったら、プチンと切れてしまうだろう。 しかし、もうこの流れを止めることはできない。 院長が返ってきた瞬間、私は呼び出され、即刻解雇である。 普通の会社員であれば、このようなことは絶対起きないことだと思うが、治療業界では、いたって普通。 私はこれで、3回目の突然即刻解雇である。 これは、退職金も何も保証はなく、その日その場で、職を失うことだ。

この3回目の、解雇により、私の中の何かが動きだした。 そう、開業への思いだ!! 指名を受けていた患者さんを一気に失った私は、1か月以内に開業し、患者さんを一気に取り戻す。 この決意の元、1か月間寝る時間はすべて削り、開業準備に走り回った。 診察券や名刺、チラシなどすべて手作り。 治療院の物件探しから、内装施工計画、治療院の準備に必要なすべてを1か月間で、達成するために走り回った。 そして、ピッタシ1か月後、東京銀座の隣にある京橋に開業することができた。

これまでは、さまざまな治療院で働いてきて、何となく、治療できる自信がついてきていた。 けれど、所詮は、誰かの下で働いているという保険付き。 これが、開業となると話はガラッと違ってくる。 患者さんは、見た目に左右されやすいのか、開業当時、キュアハウスの玄関を入ってきて、私を見るなり、 「あなた本当に治せるの?」 「あんちゃんで、本当に大丈夫か?」 と、よく言われていた。 しかし、私は、開業当時、すでに、アメフトのコーチ歴は10年。

治療家としての臨床歴は、8年ほどあった。 そのため、心を平静に保つすべは持っていた。 上記のような患者さんが来た場合、あっさりと、 「その答えは、治療後に出ますので、その時感想を聞かせてください。」 と、言うようにしていた。 結局、どの患者さんも、最後まで待つことなく、治療が経過するごとに、 上から目線の言葉

ため口

丁寧語

敬語

このように、変わっていった。 あんちゃんや、兄ちゃんと言っていた人が、先生というようになる。 この変化は、何とも愉快ではあるが、一歩間違えば、天狗になってしまう。 ある日、どこそこの社長がやってきた。 うちの若いもんを、全員治療してほしいと。 1週間連続で、全員順番に連れてくるから、やってくれとのこと。 こんなオファーが、開業当時に来るわけないのだが、私は、少し天狗になっていたようだ。 いつの間にか、自分に自信を持っていたため、そのオファーは、自分を認めてくれた証拠と思い込んでしまった。 結果は、誰一人来なかった。

予約だけがうまり、暇な時間が増えただけ。 大きな損失を経験した。 こんなことが、開業後2年間は、たびたび起った。 いろんな方法で、だまされた。 けれど、患者さんの数は、順調に伸びていった。 患者さんが増えるとともに、おかしな人たちが、治療院を出入りすることも少なくなってきた。 ようやく安定し始めた時に、テナントビルのオーナーが来院。 ビルのオーナーが変わるとのこと。 しかし、オーナーが代わっても契約内容に変更はないので、今まで通り利用ができるということを伝えられる。 その3か月後、突然、半年以内に出ていってくれと新オーナーから言われてしまった。 どうやら、ビルの他テナントもすべて出なければならなくなったらしい。 3年ほど前にスタートした、八重洲京橋地区10年計画というものが始まり、古いビルは次々と買収され、新しいビルがあちこちに立ち始めた時期でもあった。 その結果、京橋から、今の日本橋へと移転してきたということになる。

最後に

ざっと、私の現在までの流れを書いてきました。 あまり、このような形で治療院の院長の半生を紹介しているものはないと思います。 けれど、私は、本気で身体や心で苦しんでいる人を救いたいと思っています。 しかし、私がいくら強い思いを持っても、私という人間が、どういう人間であるかわからない状態で、いきなり信用しろと言っても、すぐにできるものではないですよね!

ですので、まずは、私のありのままをさらけ出し、私という人間を知ってもらい、そして、 「治療を受けてみよう」と思ってもらえたらと思い、このような形を取らせていただきました。

あなたが、これまで苦しんできた症状の原因を、心の底から理解し、同じ状況になっても、あなた自身で改善できるようになるための知識を身に付けてもらうための手助けできたら、 最高にうれしいです。

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